小浜の歴史

 小浜市は、日本のほぼ中央に位置する若狭地方の都市であり、日本海の暖流と寒流が合流する若狭湾によって、豊富な海産物を育む天然の良港であったことから、飛鳥・奈良時代から朝廷に食材を献上する御食国でもありました。これらのことは、古代の藤原京・平城京で出土する木簡にも、御食国若狭から送られた海産物や若狭湾沿岸部に点在する製塩遺跡で生産された塩等の記載が多く見られます。

 平安時代になると、山を信仰対象のご神体とする神仏習合の社寺が谷あいに建てられ、その寺社建造物群は国宝・重要文化財等に指定される等、全国に誇れる宝物が残されています。また、その寺社建造物群は、内部に安置される仏像等や境内周辺の景観とも調和し、先人達が守り伝えてきた、力強い祈りが今日まで息づいています。

 平安時代末頃には、日本海交通の要である海運が発達し、「泉州堺か若狭小浜か」と言われるほど、小浜を湊町として繁栄させるものとなり、港湾都市としてその中枢を担っていました。

初めてゾウが来た港の図

 室町時代には、南蛮船の来航により、日本国王の進物として、初めて日本に象が来たのがこの小浜の地であることを『若狭国税所今富名領主代々次第』では記録しています。また、『万葉集』にも謳われた名山・後瀬山周辺に居館を構えた若狭武田氏は、数多くの禅宗寺院を建立・再建するとともに、当代随一の学者らと交流することによって、領内の芸能を発展させてきました。

 戦国時代を迎えると、若狭武田氏が滅びた後は、次々と領主は入れ替わりましたが、関ヶ原合戦の功績で若狭国を与えられた京極高次によって、高度の技術を駆使した水城「小浜城」の築造が開始され、小浜城周辺には、武家と町人の居住を確立させた小浜城下の町づくりが進められました。その町づくりは、京極忠高が転封した後も、小浜藩を治めることになった酒井家が引き継ぎ、小浜城天守閣を完成させ、長年、安定した国政は、城下町の文化を発展させ、多くの偉人を輩出することになりました。

 明治・大正時代には、鉄道が敷設される等、小浜の近代化が進み、西洋建築物も増えました。

 明治期の建物のいくつかは、現在一般公開されています。明治期の歌人・山川登美子の生家(国登録文化財建造物)は「山川登美子記念館」に生まれ変わり、登美子の遺品や愛用品等が展示され、その生涯を知ることができます。また、平成28年5月には、小浜西組地区に現存していた明治期の芝居小屋「旭座」が市街地の中心に「まちの駅」のシンボルとして移築復原され、落語会やコンサート等が催されるイベント会場として親しまれています。