イベント紹介

令和3年4月15日佐久間艇長顕彰祭の縮小開催について

日時:令和3年4月15日(木)午後1時30分~(30分程度)

場所:小浜公園 佐久間艇長像前

内容:新型コロナウィルス感染症の感染拡大予防の観点から、市内関係

   者による縮小形式で開催いたします。

 

【佐久間艇長の生涯】

 佐久間艇長(佐久間勉)は、1879年(明治12年)9月13日、福井県三方町北前川村の前川神社宮司 佐久間可盛・まつの次男として生まれました。少年時代の艇長は、おとなしい内気な性格だったと言われています。

 艇長と小浜のかかわりは、福井県尋常中学校小浜分校として開設された小浜中学校(現在の若狭高校)の第1回生として1894年(明治27年)5月に入学から始まります。内気だった少年も中学校では、厳しい父のような存在であった成田鋼太郎先生とやさしい生田(市川)小金次先生らの教えを受け、精神的にも肉体的にも著しい成長を遂げていきました。

 そして、1897年(明治30年)金沢で海軍兵学校を受験します。全科目合格しますが定員制のために入学できず、東京の攻玉社海軍中学校に転学して翌年再び兵学校を受験して合格入学しました。

 兵学校に入学して艇長が感じたことは、日本全国から選りすぐられて入学した生徒達の中で、北陸地方からの生徒は全般的におとなし過ぎて覇気に乏しく、実力がありながら認められずに損をしているのではないかということでした。

 そこで艇長は、厳しい学校生活の中にあって寸暇をみつけては成田・生田両恩師に手紙を書き兵学校での生活を紹介するとともに、後輩たちにも励ましの手紙を書いて送っています。また、夏と冬の休暇には必ず小浜中学校を訪ね、恩師との再会を楽しみ、後輩を集めて激励し、発奮を促しました。

 小浜中学校では、それまで海軍兵学校を受験するものは無かったのですが、艇長等の励ましにより受験者も増え、将校までも輩出するようになりました。また、艇長は小浜中学校の教育の一科目であった短艇訓練のため、北陸の荒波にも耐えるギグ型ボートの設計図を書き小浜中学校へ送っています。小浜中学校では艇長の設計図を基に5隻の訓練用ボートを建造し、生徒たちは日々短艇訓練に励みました。さらに海軍使用の手旗信号は海上での通信に必要と、詳しい説明書と図面を作って小浜中学校へ送り、小浜中学校では他に先んじてこの信号法を学び、生徒に練習をさせて海陸の通信等に有効に活用しました。艇長のボートは後に校歌となり「心の船も佐久間型、倦まず乱れず進む我らよ」と歌われました。また、艇長からはこの「佐久間型ボート」を格納するためのボートハウスの設計図まで送られてきましたが、残念ながら学校では予算が取れず作られることはありませんでした。

 艇長は兵学校を卒業した後、日露戦争には海軍少尉として参加しています。日露戦争後は駆逐艦「春風」の艦長等を歴任、海軍大尉に昇進しました。そして明治39年に新造された国産第1号の潜水艦「第6潜水艇」の艇長となり、山口県新湊沖での潜航訓練中に通風筒からの浸水という不慮の事故により艇は沈没し、1910年(明治43年)4月15日、乗組員13名とともに艇長は30歳の若さで亡くなりました。

 事故の折、艇長は沈着冷静に部下を指揮して部下もそれによく応え、次々にあらゆる手段を尽くします。しかし、もはやこれまでと悟り暗闇の中刻々と迫り来る死を目前にして、手帳に「佐久間艇長遺言」と題して克明に沈没の原因や状況・今後の対策、また自分は家を出るときは常に死を覚悟しており遺言状を書いてあるので父に渡してほしいことを述べ、その次に項を改め「公遺言」として部下を思いやり残された遺族への心遣いを記し、続いてお世話になった海軍の上官・先輩・同僚・小浜中学校の恩師の名前を一人ひとり書き連ね、息絶える最後まで強い責任感で艇長としての責務を全うしました。

 艇長と艇長を信頼し死の恐怖と戦いながら最後まで全力を尽くして自分の持ち場で職責を全うした13人の乗組員の姿は、驚きと感動をよび国内はもちろん世界中の人々からも賞賛され100年を経た今日まで永く語り継がれています。

 艇長遭難の際、艇長の遺書を発見したのは何と小浜中学校の後輩である倉賀野明中尉でした。倉賀野中尉は、艇長遭難するや直ちにその救援を命じられ、艇長の遺品の整理にあたり手帳を見つけました。これは既に他の人によって点検され1ページ、2ページと開いてみたが空白であったので捨てられようとしていたのを、倉賀野中尉は艇長であれば必ず何かを書き残しているはずと思い、さらにページをめくり続けたところ、あの遺書が発見されたのです。また、艇長が恩師と慕い手紙のやり取りを欠かさなかった成田先生は、艇長遭難の知らせを受けると小浜から呉に駆けつけ遺骸のお世話をされましたが、手帳に自分の名前が記されているのを見て、人前も構わず号泣したといいます。かの文豪、夏目漱石もこの遺書を名文と激賞し、与謝野晶子も「海底の 水の明かりにしたためし 永き別れの ますら男の文」など艇長の追悼歌を十余首も詠んでいます。

 酒もタバコもたしなまず、弱冠30歳の若さでこの世を去った潜水艇長佐久間勉は、海軍将校の作戦図上演習では東郷元帥をも驚かせるような豪快で緻密な才能を見せ、また一方では小浜中学校時代の下宿先の老婦に対しては卒業後も心遣いを忘れず、自分の余暇は全て後輩の指導激励に費やすなど本当に若狭小浜を愛した、誠実で思いやりのある人間でした。

 青井山の上から見下ろす艇長のその慈愛に満ちた眼差しは、今も後輩たちに「逆境に負けるな。自信を持ってもっと積極的にがんばれ」と応援をしているようです。

更新日:令和3年3月18日

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